2011/11/07
朝には紅顔ありて(中編)
ガート散策、中編、ちょっと小説風に。
ーーー
火葬場はインド人達でごったがえしていた。彼らをかき分け、中ほどまで進むと、炎の熱気と煙が僕を襲った。人が燃える匂いは独特だと聞いていたけど、特に変な匂いはしなかった。
数人の男達が、歌とも掛け声ともつかない声を上げながら、遺体を担いで火葬場へと入ってくる。男の一人は家族なのだろうか、悲痛な面持ちで声を張り上げていた。
遺体はガンガーに浸された後、しばらく岸辺に安置される。近くにいた牛が、飾られた花輪をついばむが、物言わぬ死者はもちろん、まわりの人間も止めたりはしない。
遺体に巻かれた豪奢な布が剥ぎ取られ、顔が見えた。十代後半くらいの少女だった。
キャンプファイアーのような木組の上に遺体が乗せられ、着火。最初は小さな火だったが、油のようなものがまかれると、一気に火は燃え広がった。
そうするうちに、また違う遺体が別の木組の上に乗せられる。今度は老人男性だった。先ほどの少女とは違い、こちらは大往生だったのだろう。
だけど、こうして荼毘に付されてしまえば、何の違いもない。夢半ばだろうが、どれだけの財を成していようが、何の違いもありはしない。
火が完全に燃え広がると、次第に皮膚が裂け、肉が見え始めた。「ああ、なんだか鳥肉みたいな色だな」とバカなことを思った。
火はゆっくりと、しかし確実に、彼らの体を、存在そのものを、焼き尽くしていく。
その光景はとても強烈で、鮮烈で、僕の中に、何か言い知れぬものが渦巻いていくのを感じた。
何故か思い浮かんだのは、いつか傷付けてしまった人達のこと。優しさを向けてくれたのに、拒絶してしまった、あの日のこと。
無性に彼らに会いたくなった。会って話がしたかった。
いたたまれなくなって、僕は逃げるようにその場を立ち去った。
火葬場の北側では平和な光景が広がっていた。階段に座り込んでガンガーを眺める人達。凧揚げをする子供達。
この光景を見ていると、世界のすべてが愛しく思えた。大嫌いな人間も、納得のいかない理不尽も、今ならすべて許せると思った。
死の手触りをその身で感じたとき、人はこんなにも優しくなれるのだと、僕は初めて知った。
しばらくして火葬場に戻ってみると、さっきの少女と老人の遺体は、影も形もなくなっていた。
たったこれだけの時間で、人間は燃え尽きて灰になってしまう。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
ふいにそんな言葉を思い出した。
僕の実家は浄土真宗で、法事や葬儀の際には、この「白骨の章」が読み上げられる事が多かった。
他の経文やなんかはとても退屈なものだったけど、これを聞くのだけは好きだった。
あれから二十年経った今、仏教発祥の地インドで、その言葉の意味を知る。
この世界にあるものが、いかに無常であるか。生命がいかに儚い存在であるか。
永遠に続くものなど何一つとしてなく、当たり前のように感じている自分の人生も、明日で終わりなのかもしれないということ。
だから僕は、傷付けてしまった彼らのことを思い出したのだ。もし彼らが明日死んでしまったら、謝罪する機会は永遠に失われ、僕はきっと、その後の人生を後悔と共に過ごすことになる。
もっと大人になりたい。何があっても怒らず、人に悪意を向けられても笑顔を返し、人に指さされても信念を曲げず、人の価値観を受け入れ、物事に執着せず、慢心せず、悲観せず、過去にも未来にも囚われず、そして、いつだって優しさを忘れない。
きっととても難しいことだけど、そんな人間に、僕はなりたい。
後編へ続く。
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火葬場はインド人達でごったがえしていた。彼らをかき分け、中ほどまで進むと、炎の熱気と煙が僕を襲った。人が燃える匂いは独特だと聞いていたけど、特に変な匂いはしなかった。
数人の男達が、歌とも掛け声ともつかない声を上げながら、遺体を担いで火葬場へと入ってくる。男の一人は家族なのだろうか、悲痛な面持ちで声を張り上げていた。
遺体はガンガーに浸された後、しばらく岸辺に安置される。近くにいた牛が、飾られた花輪をついばむが、物言わぬ死者はもちろん、まわりの人間も止めたりはしない。
遺体に巻かれた豪奢な布が剥ぎ取られ、顔が見えた。十代後半くらいの少女だった。
キャンプファイアーのような木組の上に遺体が乗せられ、着火。最初は小さな火だったが、油のようなものがまかれると、一気に火は燃え広がった。
そうするうちに、また違う遺体が別の木組の上に乗せられる。今度は老人男性だった。先ほどの少女とは違い、こちらは大往生だったのだろう。
だけど、こうして荼毘に付されてしまえば、何の違いもない。夢半ばだろうが、どれだけの財を成していようが、何の違いもありはしない。
火が完全に燃え広がると、次第に皮膚が裂け、肉が見え始めた。「ああ、なんだか鳥肉みたいな色だな」とバカなことを思った。
火はゆっくりと、しかし確実に、彼らの体を、存在そのものを、焼き尽くしていく。
その光景はとても強烈で、鮮烈で、僕の中に、何か言い知れぬものが渦巻いていくのを感じた。
何故か思い浮かんだのは、いつか傷付けてしまった人達のこと。優しさを向けてくれたのに、拒絶してしまった、あの日のこと。
無性に彼らに会いたくなった。会って話がしたかった。
いたたまれなくなって、僕は逃げるようにその場を立ち去った。
火葬場の北側では平和な光景が広がっていた。階段に座り込んでガンガーを眺める人達。凧揚げをする子供達。
この光景を見ていると、世界のすべてが愛しく思えた。大嫌いな人間も、納得のいかない理不尽も、今ならすべて許せると思った。
死の手触りをその身で感じたとき、人はこんなにも優しくなれるのだと、僕は初めて知った。
しばらくして火葬場に戻ってみると、さっきの少女と老人の遺体は、影も形もなくなっていた。
たったこれだけの時間で、人間は燃え尽きて灰になってしまう。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
ふいにそんな言葉を思い出した。
僕の実家は浄土真宗で、法事や葬儀の際には、この「白骨の章」が読み上げられる事が多かった。
他の経文やなんかはとても退屈なものだったけど、これを聞くのだけは好きだった。
あれから二十年経った今、仏教発祥の地インドで、その言葉の意味を知る。
この世界にあるものが、いかに無常であるか。生命がいかに儚い存在であるか。
永遠に続くものなど何一つとしてなく、当たり前のように感じている自分の人生も、明日で終わりなのかもしれないということ。
だから僕は、傷付けてしまった彼らのことを思い出したのだ。もし彼らが明日死んでしまったら、謝罪する機会は永遠に失われ、僕はきっと、その後の人生を後悔と共に過ごすことになる。
もっと大人になりたい。何があっても怒らず、人に悪意を向けられても笑顔を返し、人に指さされても信念を曲げず、人の価値観を受け入れ、物事に執着せず、慢心せず、悲観せず、過去にも未来にも囚われず、そして、いつだって優しさを忘れない。
きっととても難しいことだけど、そんな人間に、僕はなりたい。
後編へ続く。